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天才アイルトン・セナの裏側 1

20140501_912050   ■ 事故から20年 ラッツェンバーガーとセナが亡くなった、あのGPから20年が経ちました。当時、TVでサンマリノGPを見ようとしていた私は、番組冒頭から流れる映像を信じられない思いで見ていました。それでも、セナが亡くなるはずがないという根拠のない思いが私を支えていました。しかし………….。 それでもGPは続けられました。ビッグビジネスとなったF1で、それは当たり前のことだったかもしれません。しかし、何か釈然としない気持ちを持ちながら、ただTV画面を見つめるだけの自分がいました。 ■ 雨のモナコGP セナに対する思い出は、皆さんそれぞれお持ちだと思います。初のチャンピオンを決めた鈴鹿GP、最後までマンセルを押さえ込んだ92年のモナコGP、母国GP初優勝を飾った涙のブラジルGP。 でも私には彼がGPデビューを果たした84年と、ホンダと決別し苦戦を強いられた93年の出来事が強く印象に残っています。 最初のシーズンに望む前、セナはイギリスF3チャンピオンのタイトルを持ち、複数のトップチームのテストドライブをしましたが、契約までにはいたらず結局は当時、新興チームだったトールマン(現在のロータス)からGPデビューを果たします。 けっして、戦闘力が高いとはいえないマシンを駆りながら、セナは驚くべき成績を残していきました。当時、TV中継もなく新聞にF1の結果が載ることもなかった時代、もっぱら数少ないレース専門誌であるオートスポーツとオートテクニックの発売日を待って、速報を見るのが当時の私の楽しみでした。 そこに新人のドライバーが劣ったマシンに乗って結果を残しているのですから、にわかには信じられません。まず二戦目の南アフリカGPで6位入賞を果たすと、シーズン終了前までに3度表彰台にのり、ランキング9位でデビューイヤーを終えたセナ。しかし、セナはこのランキング順位以上のインパクトを世界に与えました。 圧巻は雨のモナコGP。トップを走るプロストを一周当たり数秒も早いラップタイムで追いつめるセナが7秒差まで迫ったところで、雨でレース続行が危険と判断した競技長ジヤッキー・イクスがレースを中断。そのまま終了となったレースです。この判断は当時、物議を醸し出し、後にFIAはイクスを解任する騒動にまで発展しました。 驚くべき事にトールマンは当時、ワークス供給が常識のターボエンジン全盛時代にプライベートエンジン(※)であるハートエンジンを搭載していました。これを考えるとセナが当時残したこの結果は驚異的でした。 信頼性不足に悩まされたセナはその年の16戦中14回出走(1回は予選不通過、もう1回は翌年の契約に関してチームと揉めた為、参加を認められなかった)し完走はわずかに6回。だがその6回のうち入賞が5回で、そのうち表彰台が3回というのであるから、これは驚くべき結果でした。あのトールマンで完走すればほぼ入賞で、そのうち半分は表彰台でした。 いろいろな新人ドライバーを見てきましたが、最初の年からこれほどの結果を残したドライバーは記憶にありません。もちろんルイス・ハミルトンは最初の年に4勝をあげて、ランキング2位でした。ジャック・ビルニューブも初年度に4勝を上げています。だが彼らとセナの乗ったマシンの戦闘力はまるで違います。セナはまるでマシンガンを持つ相手に対して竹槍で戦いを挑むようなものでした。それだけにこの結果はすごいとしか言いようがありません。 ​ちなみにトールマンはその前の三年間で入賞わずかに1回という弱小チームでした。その年の途中まで彼のチームメイトであったジョニー・チェコットがノーポイントであったことが当時のトールマンの実力を率直に表していると思います。 PART2へつづく ※このコラムは2004年5月にメルマガ「F1 HYPER NEWS」に掲載したものを、加筆訂正して掲載しました。

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