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拝啓 ロン・デニス殿

拝啓 ロン・デニス殿 あなたがF1活動から引退すると、聞きました。 長い間、お疲れ様でした。 思い起こせばあなたが、初めてF1に来たのは1980年だったでしょうか。 最悪の時期を過ごしていたマクラーレンを立て直すために、マルボロの要請を受けてマクラーレンの経営に参画しました。 当時、1970年代には栄華を極めたマクラーレンのチーム状態はどん底でした。 1979年には、将来を嘱望されていたA・プロストにも一年限りでルノーに逃げられる始末です。 早急にチーム立て直さなければならないあなたは、まずジョン・バーナードを連れてきました。 そして、彼は歴史的な名車MP4を作成します。 F1で初めてシャシーをフル・カーボン・ファイバーで作成したマシンです。 当時の常識では、モノコックはアルミ・ハニカムで作るのが常識で、カーボンはその一部に補強剤として使用されているだけでした。 今から考えると、必然性があるカーボン・モノコックですが、当時はその革新性から、成功が約束されていたわけではありません。 当時、カーボンは衝撃に弱いと言われており、クラッシュした時には危険であると言われていました。 その安全性を証明したのが、当時マクラーレンにいたA・デ・チェザリスでした。 速さはあるものの、ミスの多い彼は何回コースアウトしたことでしょう。 しかし、彼が何度もクラッシュしながらも、無傷で生還することで、カーボン・モノコックの安全性を証明したのは、なんとも皮肉な話でした。 あなたとチェザリスが馬が合うとは思えませんが、少しは彼に感謝すべきでしょう。 そして、そのMP4で1981年、J・ワトソンがイギリスGPで復活優勝を遂げたときには、自分のことのようにうれしかったのを覚えています。 いつの時代でも初優勝や復活の優勝を見るのは気分がいいものです。 そして、次にあなたが仕掛けたのがニキ・ラウダの現役復帰でした。 この話を聞いたときに、私は喜びました。 彼は私のヒーローでしたから。 だが、引退してから何年も立つ人が復帰できるのだろうかとも、思いました。 だから、彼が復帰して三戦目のアメリカ西GPで優勝したときは、本当にうれしかった。 あなたの正しさが証明された瞬間です。 あなたの次の戦略は、ポルシェにターボエンジンを開発させたことです。 ポルシェのターボ技術は定評があり、誰もがポルシェのターボエンジンを欲しがっていました。 ただ、当時のポルシェは経営状態も芳しくなく、F1エンジンを開発する財政的な余裕はありません。 そこであなたは、誰も考えなかった事を実行します。 ポルシェに開発させたエンジンに、スポンサー名を着けて開発費を負担させるという方法です。 この方法は、初めてというわけではありませんでした。 コスワースが開発したエンジンに、フォードが資金提供し、フォードのバッジを着けてデビューしました。 しかし、ポルシェのエンジンには自動車とは何の関係もない、TAGのバッジが着いていました。 しかも、このTAGは少し前まで、ウィリアムズのスポンサーだった会社です。 二度びっくりさせられました。 あなたのビジネスマンとしての実力を見た思いです。 更にびっくりしたのは、ポルシェのターボエンジンが本格的なデビューを果たした1984年から3年連続でチャンピオンを獲得したことです。 確かにポルシェのターボエンジンは優れているとは思いましたが、3年連続でチャンピオンになるとは予想すらできませんでした。 TAGを経営するマンスール・オジェとはその後、交友関係を持ち、ついにはマクラーレンの株を譲り渡す存在になるとは、当時は思いもしませんでした。 そして、その時期に一つの幸運が、あなたの目の前に落ちてきました。 1983年にルノーでチャンピオン争いに敗れたプロストがチーム批判をしたことから、シーズン終了後に解雇されたのです。 その時期には、主要なチームのシートは既に埋まっており、プロストの行方はないものと思われていました。 ところが幸運なことに、当時のマクラーレンはN・ラウダの契約は決まっていましたが、もう一人のJ・ワトソンとは金銭面で折り合いがつかず交渉中でした。 そこからのあなたは行動が早かった。 あっという間に、プロストとの契約をまとめ上げると、その翌年1984年の快進撃へとつながってくるのです。 そして、ラウダが引退した後はプロストと共に黄金時代を築くことに成功します。 1986年にポルシェのターボエンジンの戦闘力が落ちてくると、あなたは当時、売り出し中のホンダと契約します。 それと同時にA・セナを移籍させプロストとのコンビを組ませます。 ここからがあなたの第二期黄金時代の始まりです。 と同時にセナとプロストの確執に悩まされる事になります。 あなたはラウダとプロストのコンビで成功したので、セナとプロストでも同じようにできると思ったのでしょうね。 しかし、当時のラウダは一度引退して、しかも2度のチャンピオン経験がありました。 彼は既に何も証明する必要はありませんでした。 彼がプロストに勝てば、名声は高まりますが、負けても何も失うものはありません。 それに速さという点でラウダは、プロストに太刀打ちできませんでした。 だから、二人のコンビはうまくいきました。 しかし、セナとプロストは違います。 プロストも二度チャンピオンに輝いていますが、当時脂がのりきった絶頂期です。 そこに初のチャンピオンを狙うセナが加入するのですから、問題が起きないはずがありません。 最初の年こそ、なんとかいい関係を続けられましたが、2年目には破綻。 2年連続でチャンピオンこそ獲得できましたが、あなたには何かと気苦労の多い2年間でした。 とても頭のいいあなたですが、この件についてはあまり学習しなかったようです。 その後も、ジョイントナンバーワン体制を組み、二人のドライバーの関係には苦労する事もありました。 でも、私はどうしてそうなるのか、よくわかります。 それは、あなたの負けず嫌いな性格にあることを。 チームが、1-2フィニッシュしなければ満足しないとまで揶揄された、あなたの負けず嫌いさが、二人のエースドライバーを欲したのでしょう。 だがその後、マクラーレンがチャンピオンを得た年は、二人のドライバーの力に、差がある場合だったのは、何とも皮肉です。 その理由は明白で、二人のエースドライバーがいると、二人が勝利を分け合い、結果としてライバルチームにポイント上で負けてしまうことが多いからです。 だから、ジョイント・ナンバーワン体制が機能するためには、マシンの競争力が圧倒的に高くないと、タイトルという意味では、厳しくなります。 ミハエル・シューマッハーが圧倒的なNo.1待遇をチームに要求したことは、よく知られています。 それに関して、いろいろ批判はありましたが、チャンピオンを取ると言うことに関しては、この方法は正しいと思います。 彼は、チャンピオンになるためには、どうすればいいかよくわかっていたのです。 その後、ホンダエンジンを失ったあなたは、長い期間の停滞期を経験します。 その間にメインスポンサーであるマルボロを失い、エンジンを何回も変更し、チームは迷走します。 あなたと正反対の正確を持つマンセルを乗せると聞いたときには、驚くと同時にあなたの苦悩がよくわかりました。 ゴードン・マレーが去った後、チーフデザイナーを置かなかったのも、あなたのリスク管理手法でしたね。 一人の優れたデザイナーに頼っていると、その人間が去った後に苦しむ。 だから、集団で設計すれば、一人抜けてもマシンの競争力は落ちないと考えたのでしょう。 実際、ゴードン・マレーが抜けた後でも、スティーブ・ニコルスとニール・オートレーの二人が交互にデザインしたマシンでチャンピオンを取れていました。 しかし、それはゴードン・マレーが残した遺産を使って競争力を維持していた側面があるのも否定できません。 次第にマシンの競争力は落ちてきて、セナの個人技とホンダエンジンに頼る傾向が出てきました。 そして、その二つを失ったとき、マクラーレンの低迷期が始まります。 しかし、あなたの素晴らしいところは間違いから学ぶところです。 勝てないあなたは、当時の飛ぶ鳥を落とす勢いだったデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイをウィリアムズか移籍させるのに成功します。 スポンサーに続いて、チームデザイナーまでウィリアムズから引き抜いたあなたを、フランク・ウィリアムズはどう感じていたのでしょうか。 もちろん、あなたにも言い分はあるはずです。 スポンサーの件について、フランクの考えは古いと思っていたでしょう。 スポンサーをお金を出す存在としてしか見ていなかったフランクに比べ、あなたはスポンサーをビジネス・パートナーとして遇していました。 どちらがよりスポンサーを満足させるかは、一目瞭然です。 ニューウェイを獲得し、メルセデスエンジン、ブリヂストンタイヤ、そしてミカ・ハッキネンというパズルのピースがそろったマクラーレンは、1998年にタイトルに返り咲きます。 最後にセナがチャンピオンに輝いてから8年の月日が流れていました。 翌年もミカ・ハッキネンがチャンピオンに輝きましたが、次のチャンピオンは昨年のハミルトンまで待たなければなりませんでした。 まぁ、この時期はミハエル・シューマッハーという最強のドライバーが、ライバルのフェラーリにいたので仕方なかったのでしょう。 あなたは、そのミハエル・シューマッハーと契約しようとしたこともありましたね。 当時、最強のドライバーであり、大株主でもあったベンツと同じ国籍を持つ、ミハエルを獲得するのは自然の流れだったと思います。 だが、種々の事情でそれはかないませんでした。 そういえば、ハミルトンのデビューの件ではあなたも、かなり悩んでいましたよね。 2007年にデビューしたハミルトンは瞬く間にトップドライバーに上り詰めましたが、最後まで彼を2007年にレギュラー・ドライバーにするかは、悩んでいました。 確かに、ハミルトンの経験不足は明らかでしたし、デ・ラ・ロサはいいドライバーです。 しかし、デ・ラ・ロサがチャンピオンになれないのはわかっていました。 もちろん、その年にルノーから移籍したアロンソとの相性がいい事は、考えたのでしょうね。 だから、気楽な立場の私などは可能性のあるハミルトンの乗せた方がいいと考えていました。 なぜなら、ドライバーの本当の能力はレースをしなければわからないからです。 ハミルトンの経験不足を心配したのでしょう。 しかし、本当に有能なドライバーであれば、経験がなくとも速く走れます。 それは歴史が証明しています。 本当に速いドライバーは、始めてF1でレースした瞬間から速いものです。 もちろん、少数の例外がいることは事実ですが。 ただ、ハミルトンがあれほど速いとは私も想像できませんでした。 そしてまた、あなたは、二人の素晴らしいドライバーの確執に悩むことになります。 今年、苦境に喘ぐマクラーレンから身を引くのは、あなたにとっても難しい決断だったのでは、ないでしょうか。 しかし、誰もがいつかは辞めなければならない。 後任のマーティン・ホィトマーシュを信頼しているのでしょう。 ただ、私は少し心配です。 彼にあなたほどの、リーダーシップがあるのでしょうか。 外から見ている私には、少し不安が残ります。 こういう苦しいときこそ、真のリーダーシップが求められます。 彼の真価は、今年試されるでしょう。 あなたは、F1から身を引いても、完全に引退するのではないのですね。 あなたが、余生を楽しむというのは、なかなか想像できないので、少し安心しました。 二代目となるマクラーレンの市販車ビジネスに、関わると聞いています。 思い返せば、最初にマクラーレンが市販車を作ると聞いたときには、サイド・ビジネスやってる場合じゃないだろう、などと毒づいたりもしました。 ところが、出てきた市販車を見ると、考え方が変わりました。 デビューしたマクラーレンF1は、フェラーリが束になってかかっても、かなわないほど素晴らしいクルマでした。 極端にまで切り詰められたフロントとリアのオーバーハングに三人乗りのシートレイアウト。 その考えに考え抜かれたパッケージは、後のスポーツカーの設計に大きな影響を及ぼしました。 これほどまでに、理想を追求した市販車は後にも先にもないでしょう。 理想主義者であった、あなたらしいスポーツカーでした。 ただ、日本人である私としては、その素晴らしいスポーツカーに、ホンダ・エンジンが当初の予定通り載らなかったのは、本当に残念です。 おりしもマクラーレンF1がデビューした1983年は、F1の方も調子が出ませんでした。 それを関連づけて批判されたあなたは、きっと反論したかったことでしょう。 でも、この世界は結果が全てであることを、わかっているあなたは、それに耐えました。 そして、再びマクラーレンはチャンピオンに上り詰めたのです。 驚かされることが多いあなたでしたが、最も驚いたものの一つがファクトリーの綺麗さです。 昔、F1の工場というと、そこら辺りにある町工場に毛が生えた程度のものでした。 ツール類こそ整理整頓されていましたが、床はお世辞にも綺麗とは言えませんでした。 ところが、あなたはその常識を180度変えました。 あなたが、来てからのマクラーレンのファクトリーは、塵一つ落ちていないばかりか、ピカピカに磨き上げられています。 もちろん、それは信頼性を上げるためのものであり、今では全てのF1のファクトリーの床が同じように磨かれています。 しかし、それをマクラーレンの工場で最初に見たときには、驚きそして、感嘆しました。 そしてあなたが、F1界に残した最大の功績に触れないわけはいけません。 それは、F1にビジネスという概念を最初に持ち込んだことです。 昔のF1は、レース好きがやる趣味か、金持ちの道楽でした。 それはそれで、楽しかったのですが、あなたはそこにビジネスとしてのF1を作り上げていきました。 これには、賛否両論あると思いますが、F1がビッグ・ビジネス化していくなかで、避けられない動きだったと思います。 もちろん、あなたにレースに対する情熱がないなどとは、言うつもりもありません。 それどころか、チームを買収した後にチーム名を変更するチームが多いにも関わらず、マクラーレンという伝統の名前を使い続けました。 私には、それがとてもうれしかった。 これは、F1の伝統に対する敬意と受け取りました。 時としてマクラーレンは、その完璧さ故に人間的な暖かみのない、チームであると誤解されることもありました。 しかし、この世知辛いF1の世界でドライバーと長期的に契約していた事実は余り知られていません。 結果のでないハッキネンを走らせ続けましたし、ハッキネンとクルサードのコンビを7年間維持しましたね。 これは、現代のF1においてはあり得ないほど、長期のコンビです。 それに、マクラーレンの従業員は、皆幸せそうです。 最後にあなたの頑固さには、参ることもありました。 頑固さ故に、失ったことも多いでしょう。 もう少し、柔軟に物事をとらえられれば、いいのにと思うことも多々ありました。 しかし、その頑固さ故に、あなたはマクラーレンをF1界随一のチームにすることができたのでしょう。 あなたをサーキットで見ることがなくなるかと思うと、少し寂しい感じがします。 しかし今は、あなたが関わる新しいマクラーレンの市販車を、期待して待ちたいと思います。 では、またどこかでお会いするときまで。 敬具 From日本のF1ファンより

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