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鈴木亜久里の冒険の終わり その一

それは、鈴木亜久里の一つの行動から始まりました。 当初、鈴木亜久里は自分でF1チームを立ち上げるつもりはありませんでした。 彼は、2005年に本田技研を訪ねました。 そして、ホンダF1チームへ出資する形で、F1へ参加させてもらえないか打診した。 しかし、既に、ホンダが100%資本注入しBARからチームを引き継ぐ形で、2006年から活動をすることが決まっていたホンダの回答は「No」でした。 ただ、もし鈴木亜久里がF1チームを立ち上げるのであれば、ホンダとして支援は惜しまない旨を伝えた。 ちょうど、佐藤琢磨がBARを離れることもホンダと鈴木亜久里にとっては都合が良かった。 ホンダからすれば、佐藤琢磨のシートを見つけることができるし、経験もあり速さもある佐藤琢磨の加入は、純日本のF1活動を掲げるスーパーアグリにとっては、願ってもない話でした。 そこからの、鈴木亜久里の行動は素早かった。 まずは、ラルースで一緒に活動したことのある、元フェラーリのマネージャー、ダニエル・オーデットに連絡し、ヨーロッパでの活動を開始。 それと同時に、日本国内でのスポンサー集めに奔走。 まずは、F1に参戦するための供託金を集める活動が始まりました。 噂されたように、ソフトバンクとの話し合いもありましたが、F1という他とは違うスポーツに対する誤解により、最終的に話はまとまりませんでした。 2005年11月にF1参戦を発表したときも、資金面や組織面ではほとんど何も決まっていませんでした。 その後、供託金の支払期限に間に合わず、当初のエントリー・リストからは漏れていたにもかかわらず、二度目の期限には間に合わせ、全チームの承認を得て、参加が決まりました。 それに際しては、銀行からお金を借りたりと、ギリギリのエントリーでした。 その裏では、旧アロウズ・マシンの買い取りと、レギュレーションへ合致させる為や、ホンダのパワー・パッケージを搭載するための、作業が昼夜を問わず進められました。 そして、2006年の開幕戦に、スーパーアグリの二台のマシンは、グリッド上に姿を見せました。 この後は、皆さんもご存じのように、苦戦を続ける2006年と飛躍の2007年がやってきます。 オーストラリアGPでの、Q3進出。 スペインGPでの、初入賞。 カナダGPでの、アロンソをオーバーテイクしての6位入賞。 どれもこれも、素晴らしい思い出です。 ただ、そんな素晴らしい結果を残しながらも、後ろでは資金面での苦戦が続いていました。 それは、2007年のスポンサー契約を締結したSS Unitedの契約不履行です。 彼らは、スポンサー契約を結びながら、資金を振り込むことは、ありませんでした。 代替するスポンサーが見つからない中、シーズン後半には開発も止まり、失速しました。 間の悪いことに、ホンダの成績が最低だったことも、問題になりました。 資金に窮する中で、株式の売却への交渉が複数と始まりました。 2008年シーズン開幕直前には、マグマ一本に絞り詳細を詰めていましたが、突然、一通の手紙により白紙に戻ります。 それまでの、努力はたった一通の紙で、無に帰しました。 この時の、彼らの無力感は想像するのも困難です。 そして、スペインGPはホンダの資金援助により参加しましたが、そこまででした。 2008年5月6日。 ゴールデン・ウィークの最終日。 参戦発表から約2年半。 スーパーアグリの活動停止が発表されました。 これは、新しい投資家をホンダが認めなかったとか言われていますが、それは事実ではないようです。 会社を売るとか買うとか言うのは、八百屋で野菜を買うのと違い、資産の査定など、手順を経てからでないとできません。 それをやる時間がなかったというのが、現実のようです。 では果たして、スーパーアグリの挑戦は無謀だったのでしょうか。 次回へ続く

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