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「16対1から18対1」─メルセデス圧縮比疑惑の技術的核心を読み解く

2026年パワーユニット規則で象徴的なのが、圧縮比の上限を18:1から16:1へ引き下げた点である。狙いは、燃焼制御の難易度とコストを抑え、新規参入メーカーでも成立しやすい“管理可能な範囲”に落とすことにあった。しかし今、メルセデスが検査上は16:1のまま、走行状態では実質18:1に近づけているのではないかという疑惑がパドックを揺らしている。鍵を握るのは「小さな追加容積(マイクロチャンバー)」と「検査が常温・静的であること」だ。

圧縮比は“測定条件”で意味が変わる

まず押さえるべき前提は、圧縮比という数値が“どの状態で測るか”によって意味を変えるという事実である。圧縮比は、簡潔に言えば「ピストンが上死点に達したときに燃焼室内に残る体積」と「下死点から上死点までに押し込まれる体積」の比で決まる。したがって、上死点付近で燃焼室とつながっている体積が増えれば圧縮比は下がり、逆に運転中にその体積が切り離されれば圧縮比は上がることになる。

問題は、2026年規則の運用が、少なくとも当初は圧縮比の適合確認を常温での静的テストで行う設計になっていた点だ。つまり、エンジンが冷えた状態で測定されることが前提であり、実際の高温・高回転の走行条件とは異なる環境で数値が確認される。この「測定条件と実走行条件のギャップ」が、今回の疑惑の出発点となっている。

マイクロチャンバーという中核アイデア

中核となるアイデアは、燃焼室あるいはプレチャンバー近傍に設けられたごく小さな追加容積、いわゆるマイクロチャンバーである。1〜2cm³程度とされるこの微小空間を、極細の通路で燃焼室に接続する。静的な常温テストでは、この通路を通じて追加容積が燃焼室と連通し、上死点時の有効容積に含まれるため、圧縮比は16:1に収まる。しかし実走行の高温・高回転条件では、その連通が実質的に失われることで、上死点時の有効容積が減少し、結果として実効圧縮比が18:1方向へ上昇する可能性があるという構図だ。

「走行時だけ切り離す」二つの物理

では、どのようにして「走行時だけ切り離す」ことができるのか。ここには二つの物理現象が絡むと考えられている。

ひとつは熱膨張である。金属部品は温度上昇によって膨張する。もし通路が極端に細く設計されていれば、高温状態ではクリアランスが変化し、流路断面が著しく絞られる可能性がある。常温では通路が開いていても、走行時の高温環境では実質的に閉じた状態となり、追加容積が燃焼室から切り離される。これにより「検査では16:1、走れば18:1」という二重構造が成立する余地が生まれる。

もうひとつは、高回転域における圧力波動と流体慣性の影響である。静的条件ではピストンの動きが遅く、細い通路でも時間をかけて追加容積が充填される。しかし1万4000〜1万5000rpmという高回転域では、上死点近傍での圧力変動はミリ秒単位で起こる。通路入口の配置次第では、境界層や局所流れの影響で差圧が十分に生じず、追加容積側へガスが流れ込みにくくなる。機械的に完全に閉じなくても、流体的に「満たされない」状態を作れれば、実効的には燃焼室から切り離されたのと同じ効果が得られる。

現実には、熱膨張と流体的な満たされにくさを組み合わせることで、より安定した再現性を持たせている可能性が高い。単一のトリックではなく、複数の物理現象を重ねることで、検査条件と走行条件の間に明確な差を作り出す設計思想である。

圧縮比上昇がもたらすパフォーマンス効果

圧縮比を引き上げることの意味は大きい。圧縮比が上がれば理論熱効率が向上し、同じ燃料流量制限下でもより高いトルクを得やすくなる。2026年は電動比率が増加する一方で、内燃機関側は燃料制限が厳しくなるため、燃焼効率の改善はラップタイムに直結する。報道や噂では十数馬力、ラップあたり0.3〜0.4秒といった数字も語られているが、実際の効果はERSマネジメントや冷却パッケージとの複合要因によって変動する。ただし重要なのは、その優位性がホモロゲーション後に簡単には追随できない構造的なものである可能性があるという点だ。

ノッキングという最大のハードル

もっとも、圧縮比を18:1相当まで引き上げるにはノッキングのリスクを抑えなければならない。燃焼室形状、プレチャンバー噴流の設計、点火時期制御、さらには燃料の耐ノック性まで含めた総合的な最適化が必要となる。単なる容積操作ではなく、燃焼制御技術全体を高いレベルで統合しなければ実戦投入は難しい。

争点は「違法性」ではなく「測定方法」

この論争が政治問題に発展している理由は、争点がメルセデスの設計そのものというより、測定方法という規則運用の穴にあるからだ。常温での静的測定が基準である限り、その条件で16:1を満たしていれば形式上は合法となる。ライバルが求めているのは、エンジンを温めた状態での測定や、走行中の代表値を監視するセンサー導入といった検証方法の見直しだ。しかし測定手順の変更は、特定チームの設計思想を事実上無効化することにもなり得る。2026年という大規模なレギュレーション移行期において、その決断は極めて重い。

16:1規則の政策的背景

そもそも16:1という数値は、技術的難易度をある程度抑え、新規参入を促すための政策的妥協でもあった。もし実走行で18:1相当が事実上許容されるなら、その前提は崩れることになる。ライバルが強く反発する理由はそこにある。

状態依存で圧縮比を“使い分ける”思想

結局のところ、メルセデスがやっていると疑われているのは、単に圧縮比を上げることではない。“圧縮比を測られる状態”と“実際に使う状態”を分離する設計思想こそが本質である。マイクロチャンバーを検査条件では生かし、走行条件では殺す。温度と回転数というF1エンジンに必ず存在する状態変数を利用して、実効圧縮比を切り替える。この発想が事実であれば、2026年最初の技術戦争は空力やハイブリッド出力ではなく、「どう測るか」という根本的な問いから始まっていると言えるだろう。