ピーター・ライトは、グラウンド・エフェクトやアクティブ・サスペンションの「生みの親」として今後も長く記憶されることになるだろう。しかし、79歳で突然この世を去ったこのイギリス人は、単なる発明家やエアロの専門家という枠にとどまらない、真の意味での「モータースポーツの万能人」だった。
60年にも及ぶキャリアの中で、彼はロータスF1チームが経営難に陥った際にその再建に尽力し、またFIAで数々の安全技術の導入に関わるなど、多方面にわたる貢献を残した。さらに、スポーツカーなどで導入されている「BoP(バランス・オブ・パフォーマンス)」という概念の礎を築いた人物でもある。

まず触れておくべきは、ライトとロータスが1970年代に確立したグラウンド・エフェクト技術だ。当時のF1界では車体下の空気の流れを積極的に使うという発想はほとんど存在せず、ライトたちはそれを自然現象として見出し、マシン設計に取り入れることで「武器」として活用した。グラウンド・エフェクトそのものを“発明”したわけではないが、それを「使える形」にしたのは間違いなく彼らの功績だった。
1975年末、ロンドンにあるインペリアル・カレッジのローリングロード風洞で、後に「ウィングカー」として知られることになる技術の突破口が、ある“事故”のような形で訪れた。試作中のロータス78には、サイドポッド内に燃料タンクが搭載されていたが、それらが構造的にたわみ始め、風洞試験で得られる数値が想定外に変化していたことにライトは気づく。
「サイドポッドがたわみ始めていて、そのせいで風洞でのダウンフォースの値が大きく変わっていたんだ」とライトは後年語っている。「それが決定的な“ひらめき”の瞬間だった。サイドポッドとフロアの間の隙間が空力的に非常に重要だと気づいたんだ。だから段ボールを使ってサイドを塞いだ、今で言うところの“スカート”だね。そしてサイドポッドも補強した。するとダウンフォースが一気に2倍になったんだ」
このエピソードには異説もあり、当時ロータスでエンジニアとして開発に携わっていたラルフ・ベラミーは、より複雑な過程を語っている。フロントウイングの高さを調整して風洞試験をしていた際、可動床のベルトが吸い上げられ、それをヒントにサイドポッドを翼断面形状に加工するという発想が生まれたという。ライトによれば、その時の思考は「とりあえずやってみよう」程度の軽いノリだったようだ。ちなみに彼は以前、スペシャライズド・モールディングズ社でマーチ701にも同様の設計を施していた経験がある。
こうした過程を経て、ロータス78は空力性能で他チームを大きく引き離すマシンとなった。もしこのマシンに搭載されていたコスワースDFVエンジンがもう少し信頼性が高ければ、マリオ・アンドレッティは1977年のチャンピオンになっていただろう。その“もし”を現実に変えたのが、翌年のロータス79だった。
チャップマンが常に新たな技術革新を追い求める人物だった一方で、ライトはそれを形にする現場の知性だった。グラウンド・エフェクトの性能を安定させるためには、マシンのアンダーフロアと路面との距離を一定に保つ必要がある。これは理論的に理解していたが、実践的に解決する手段を探る中で、ライトが真に独自のアイデアとして提案したのがコンピューター制御のサスペンション、「アクティブ・サスペンション」という答えだった。
ライトが真に独自のアイデアとして提案したのが「コンピューター制御のサスペンション」、すなわちアクティブ・サスペンションだった。これはグラウンド・エフェクトが生み出す大きなダウンフォースによって車高が不安定になる問題を解決するためのアプローチで、従来の機械式ではなく電子制御で常に最適な車高を維持しようというものだった。
1975年末、ロンドンにあるインペリアル・カレッジのローリングロード風洞で、後に「ウィングカー」として知られることになる技術の突破口が、ある“事故”のような形で訪れた。試作中のロータス78には、サイドポッド内に燃料タンクが搭載されていたが、それらが構造的にたわみ始め、風洞試験で得られる数値が想定外に変化していたことにライトは気づく。
「サイドポッドがたわみ始めていて、そのせいで風洞でのダウンフォースの値が大きく変わっていたんだ」とライトは後年語っている。「それが決定的な“ひらめき”の瞬間だった。サイドポッドとフロアの間の隙間が空力的に非常に重要だと気づいたんだ。だから段ボールを使ってサイドを塞いだ、今で言うところの“スカート”だね。そしてサイドポッドも補強した。するとダウンフォースが一気に2倍になったんだ」
このエピソードには異説もあり、当時ロータスでエンジニアとして開発に携わっていたラルフ・ベラミーは、より複雑な過程を語っている。フロントウイングの高さを調整して風洞試験をしていた際、可動床のベルトが吸い上げられ、それをヒントにサイドポッドを翼断面形状に加工するという発想が生まれたという。ライトによれば、その時の思考は「とりあえずやってみよう」程度の軽いノリだったようだ。ちなみに彼は以前、スペシャライズド・モールディングズ社でマーチ701にも同様の設計を施していた経験がある。

こうした過程を経て、ロータス78は空力性能で他チームを大きく引き離すマシンとなった。もしこのマシンに搭載されていたコスワースDFVエンジンがもう少し信頼性が高ければ、マリオ・アンドレッティは1977年のチャンピオンになっていただろう。その“もし”を現実に変えたのが、翌年のロータス79だった。
チャップマンが常に新たな技術革新を追い求める人物だった一方で、ライトはそれを形にする現場の知性だった。グラウンド・エフェクトの性能を安定させるためには、マシンのアンダーフロアと路面との距離を一定に保つ必要がある。これは理論的に理解していたが、実践的に解決する手段を探る中で生まれたのが「アクティブ・サスペンション」という答えだった。
ツインチャシー構造を持つロータス88がFIAからグランプリ週末で3回にわたり出場拒否され、失敗に終わった1981年、その代替案としてライトはアクティブ・サスペンションの開発に着手する。初めてこのシステムを搭載したF1マシンは1983年序盤、ナイジェル・マンセルの手によってコスワースエンジン搭載のロータス92として実戦投入された。しかし、1982年末にチャップマンが急死し、ルノーとの間でV6ターボエンジン供給契約が拡大されるなど体制が大きく変わったことにより、このプロジェクトは一時中断を余儀なくされる。
その後、ライトはロータスのエンジニアリング部門に移籍し、このシステムを市販車向けに仕上げて大手自動車メーカーに売り込む活動を行った。最初の顧客となったのがゼネラルモーターズで、後にロータスの経営権の一部も買収。これにより、1987年にアクティブ・サスペンションがロータス99TでF1に復活する。ホンダエンジンを搭載したこのマシンは、アイルトン・セナのドライブで2勝を挙げ、さらに6度の表彰台を獲得する活躍を見せた。

しかしライトの才能はテクノロジーだけにとどまらなかった。1982年、ロータスがタイプ91でモンツァのテスト中にポーポイズ現象(上下動)に悩まされていた際、彼は独創的かつ即興的な対応策を考案する。
「ポーポイズ現象を止めるようにクルマを調整すると、ただ遅くなるだけだったんだ」とマンセルのレースエンジニアだったスティーブ・ハラムは振り返る。「そこでピーターが、その場でリアウイングのガーニーフラップを切って、それをベンチュリ部分に設置し、空気の分離点を作るという方法を提案した。確かにダウンフォースは減ったけど、空力バランスが整って、ドライバーにとってははるかに扱いやすくなった。ピーターは自然体の問題解決者だった。どんな課題でも彼の机に置けば、必ず技術的知識と知的好奇心で解決しようとしてくれた」
アクティブ・サスペンション開発の資金が尽きた後、ライトはロータス・エンジニアリングのマネージングディレクターとして一時現場を離れるが、1991年に親友ピーター・コリンズとともにチーム・ロータスの再建に着手し、再びF1の世界に戻ってくる。
チームが1994年末に活動を停止すると、ライトはF1レースディレクターのチャーリー・ホワイティングを訪ねて職を求めた。そこでFIA会長マックス・モズレーの技術顧問として採用され、その後はFIAセーフティ委員会の委員長(2010年~)としても活躍。クラッシュ・データレコーダー、HANSデバイスの導入、プロトタイプカーの“離陸事故”防止策、そしてF1のハイブリッド化への道筋づくりなど、数々の重要なプロジェクトを手がけた。
2005年には、モズレーの指示により、スポーツカー耐久レース界で今では常識となった「バランス・オブ・パフォーマンス(BoP)」の概念も彼が導入する。これは、マセラティが開発したMC12のような、明らかに他車を凌駕するスペックのマシンに対抗するための制度であり、「自由な発想を持つ技術屋」であったライトにとっては、また一つの「面白い課題」に過ぎなかった。




