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ブリヂストンが獲得した大事な宝物  -BS14年間の軌跡-

JUGEMテーマ:スポーツ

ブリヂストンの14年間に渡るF1活動が終了した。 14年間とは思い返せば長い時間である。 正直言ってブリヂストンがF1参入を発表したとき、これほどの長期間にわたってF1にコミットするとは想像できなかった。 それと同時に、ブリヂストンのF1挑戦は難しいチャレンジになると感じた。 というのもF1参入に先立つ1981年、ブリヂストンはヨーロッパF2に参戦し手痛い目に あっていたからである。 そこで彼らが直面したのは日本で敵なしだった彼らのプライドを粉々に砕くものだった。 最初の年、ライバルはピレリ。 この年、ブリヂストンは有力チームへタイヤ供給をしたこともあり、チャンピオンを獲得。 上々の滑り出しだった。 ところが翌年、ミシュランが参戦してくると状況は一変。 まったく勝てなくなったのだ。 予選ではBSが予選用タイヤを使用して速いのだが、決勝ではすぐにタイヤがたれて、ミシュラン勢に逆転される。 ミシュランタイヤは速いペースを長距離維持できた。 一方のブリヂストンはタイヤを持たせようとすれば、ゴムを固くするしかなく、タイムが上がらない。 シーズン中に契約チームが、タイヤメーカーを変更するという屈辱的な出来事もあった。

 この頃、ブリヂストンはミシュランが何をしているのかよく分かっていなかったし、ミシュランとブリヂストンは企業規模の観点でも大きく違っていた。 日本ではNo1だったブリヂストンだったが、世界的に見れば中規模の会社でミシュランとはまだ差が大きかった。 当然、投入できるリソースにも違いがあった。 ミシュランは専用のトランスポーターを仕立ててタイヤを持ち込み、ホイールに組み込むフィッターも専門職がやっていて、エンジニアは自分の仕事に専念していた。 当時のブリヂストンは、チームのトラックの片隅にタイヤを積んでもらい、エンジニア自らがタイヤを組み込むという状況であった。 ミシュランはサーキットの特性に合わせたタイヤを持ち込むのに比べ、ブリヂストンはそういう戦術はなく、テストで良い結果が出たタイヤを持ち込むだけであった。 日本とヨーロッパの距離も問題となった。 日本で作ったタイヤをヨーロッパへ持ち込むには時間がかかる。 当時はインターネットもなく、電話やテレックス等を使って日本とやりとりするしかなく、コミュニケーションにも問題があった。 さらに当時、日本で最強を誇っていたブリヂストン社内では、チーム側の タイヤの使い方が下手だから、勝てないのだという声まで出てくる状況で、浜島氏の苦労も大きかった。 この頃は、丁度バイアスタイヤとラジアルタイヤの端境期。 ラジアルタイヤのミシュランに、ブリヂストンは対抗できなかった。 ブリヂストンもラジアルタイヤを持ち込んではいたが、勝てなかった。 当時はウィングカーが猛威を振るっている時期で、強大なダウンフォースをタイヤ で支えなくてはならず、変形しにくいラジアルタイヤの投入は必須の状況だったが、彼らはラジアルとバイアスタイヤを同時に投入することもあり、相当悩んでいたことがわかる。 結局、ブリヂストンはミシュランに対抗できず、1985年を最後にヨーロッパF2から撤退することになる。 そういう過去を知っていただけに、ブリヂストンのF1挑戦は困難な道になると思った。 だが、ブリヂストンは、F2撤退から12年間の間で大きく進化していた。 この間、彼らはDTMへ参加しているAMGにタイヤを供給し、成功を収めていた。 フォーミュラ・カーより重い車重のDTMマシン向けのタイヤ開発は、また違った難しさがあった。 タイヤのサイズも小さく、熱や遠心力の負荷など乗り越えるべき課題がたくさんあったが、彼らはそれを進化させた技術で克服。 このカテゴリーでブリヂストンは、5年間の間で3回チャンピオンを取ることに成功した。 1995年にはアメリカのフォーミュラー・カー・シリーズCARTにも、ファイアーストーン銘柄でタイヤ供給を開始。 これはブリヂストンが1988年にファイアーストーンを買収したことが発端となっている。 当時、タイヤの欠陥問題で落ちていたファイアーストーンのブランド力を、モータースポーツで復活させるべく、参戦。 オーバルコースが多くタイヤへの垂直過重が強大で、安全性を確保するのが難しいシリーズであった。 また高速での走行が連続するので温度も厳しいし、遠心力も大きい。 ここでもブリヂストンは課題を克服し、成功する。 そして1997年ブリヂストンは、念願のF1参戦を果たした。 私の心配をよそにブリヂストンは、初年度から競争力を発揮。 初年度は中小チームへの供給だけだったが随所で速さを見せて、トップチームを慌てさせることもしばしばあった。 この年のハイライトは、ハンガリーGP。 アロウズ・ヤマハにのる前年度チャンピオン デイモン・ヒルがトップを独走し、優勝まで残り3ラップまで迫った。 ご存じのように、この時はギアボックスのトラブルにより失速し、惜しくも2位。 落胆は大きかったが、このレースでブリヂストンの速さを印象づけることに成功。 この年の成功が、翌年マクラーレンとの供給契約につながる。 トップチームと契約したブリヂストンは、その年に初勝利を上げ、チャンピオンも獲得。 参戦二年目で頂点に立つことに成功した。 この最初の2年間はグッドイヤーとの戦いだった。 その後の2年間、1999年と2000年は単独供給。 そして、2001年から宿命のライバルであるミシュランがF1に参入してきた。 浜島氏の負けじ魂に火が付いた。 20年前にミシュランに味わされた屈辱を果たすべく、勝負に出る。 しかしミシュランも負けてはいない。 参戦初年度からウィリアムズといった当時のトップチームと契約し、競争力を見せてくる。 2001年から2005年はフェラーリのミハエル・シューマッハーが5年連続チャンピオンを獲得。 ブリヂストンはフェラーリ王朝復活の一翼を担った。 ところが、ミシュランも反撃。 2005年、2006年はミシュランを履くルノーのアロンソにチャンピオンを奪われた。 2005年のUSA GPではミシュラン勢がレースをしないという事件もあった。 彼らのタイヤは強大な垂直過重に耐えきれず、サイドウォールにひびが入り、走行できなくなったのだ。 ミシュランは最後まで走ることのできるタイヤを供給できず、結果的にブリヂストンを装着した6台しか走らない前代未聞のレースとなった。 ファイアーストーン銘柄で参戦していたインディー・シリーズでの経験が生きた瞬間だった。 そして2007年からはレギュレーションが変更になり、再びワンメイクへ。 最後の4年間もブリヂストンは、安全性の高い、高品質のタイヤを供給し続け、各チームから高い評価を得て、ブリヂストンの撤退を惜しむ声は多かった。 ヨーロッパF2参戦から29年、F1参戦から14年間。 ブリヂストンは大きな飛躍を遂げ今年を最後に、F1活動から撤退する。 技術力の向上もあったが、この間ブリヂストンは企業としても急成長をとげ2006年にはミシュランとグッドイヤーを抜き、世界一のタイヤメーカーへと成長した。 この14年間の活動でブリヂストンがF1で得た物は多い。 ブリヂストンはこの14年間で175勝し、11回チャンピオンを獲得した。 これらは輝かしい栄光の記録である。 だが私はブリヂストンがF1で得た最大のものは、それらの栄光の数々ではなく、 「信頼」の二文字ではなかっただろうか。 参戦開始の年はトップチームからは見向きもされなかったブリヂストン。 その彼らが最後の年には、継続してくれと懇願され、最終戦では多くのドライバー、多くのチーム代表、多くのメディアから賞賛と感謝の言葉を贈られたブリヂストン。 F1の世界は閉ざされた小さな社会である。 彼らは容易によそ者を受け入れない。 その彼らがこの14年間のブリヂストンを褒め称えるのは、決してお世辞ではない。 ブリヂストンが14年間で実践してきた信頼性、安全性、公平性等々を彼らが評価しているからに他ならない。 それこそがブリヂストンがこの14年間で得た最高の贈り物であると締めくくり、この文章を終わらせたいと思う。 そしてこの文章の続きは再び彼らがF1の世界に戻り、彼らの活動の第二章が幕を開け るその日まで楽しみに待っていて欲しい。 最後にブリヂストンのみなさん、ありがとうございました。 そしてお疲れ様でした。 再びF1に戻られるその時を待っています。

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